「お腹すいた」を深掘りすると
急に寒くなって、朝起きるのがツライですね。
三寒四温を経て春になる、その日を今か今かと待っております。
昨日、次男が喉が痛いと言うので耳鼻科に行ってきました。
小学校が終わるのを待ち、次男を連れて保育園へ向かい、娘も一緒に耳鼻科へ。
無事に診察が終わり、薬をもらって帰宅。
夕方4時に自宅を出て、帰宅したのは6時でした。
主婦の方にはお分かりかと思いますが、夕方は夕食を作る大事な時間です。
私も病院の為に仕事を早めに終わらせて、あらかじめ夕食を作ってから、耳鼻科へ行ったのです。
全ては家族の「お腹すいた」に対応するためでした。
長男の塾の為、私より早く帰宅するであろう主人の為、家で留守番している三男の為。
そして何より病院から帰ってすぐに食べたい次男と娘と自分の為に。
しかし次男坊、病院の待ち時間から「お腹すいた」コール。
先生からアメちゃんもらったやん!と思ったのですが、小学五年生がアメ1つで空腹が収まるはずもないでしょう。
帰宅後すぐに食事の支度を整え、さぁ食べようと「今日は夕食が遅くなってごめんね」と声をかけたら次男が「ほんとだよね」と。
いやいやいや、あんたの病院のせいじゃん!
私も思わず言い返してしまいました。
それから何を言ったのかハッキリ覚えていませんが、次男と言葉の応酬が始まり、主人に「もうやめなよ!」と止められるまで言い続けていました。
次男は、純粋にお腹が空いていただけなんだと思います。
責められたように感じた私。
お腹すいてるんだから、早く食べられるように準備してよ!と罵られているような感覚にさえ、なってしまった私。
ここに母としての暗闇があるように感じるのです。
そもそも母親には我が子の泣き声(赤ちゃん限定)を聞くと、心拍数が上がり、いてもたってもいられないような気持ちになるそうです。
それがあるから泣くことで助けを求める赤ちゃんと、それに応えたい母親との深い関係が結ばれるのですね。
赤ちゃんを卒業し、ある程度は言葉で意思の疎通ができるようになっても、私が子どもの「お腹すいた」に敏感に反応してしまうのは、赤ちゃん時代の名残りでないかと思うのです。
助けを求められていると。
早く助けてくれないと、もっと泣くぞ!と言わんばかりに赤ちゃんは泣きますよね。
赤ちゃんは命に関わることでも泣き、体が痒くても泣き、眠くても泣き、すべて泣くことで意思表示します。
泣くのが続く時、私は無力感に襲われます。
そんな時感じた気持ち、感覚が、「お腹すいた」と言われたときと同じなのではないかと思うのです。
しかし、私の赤ちゃん達はもう子供になりました。子供はお腹がすいたという意思があれば、自分で食べ物を探すことができるのです。
台所の棚の中には子供用のオヤツが入っていて、勝手に食べていいことを教えています。
母親の私が食事の準備をし、食卓に並べるまでの間に「お腹すいた」と騒ぐ必要はないのです。
それに早く食べたいのなら、私を手伝うこともできます。
お皿を並べたり、ご飯をよそったり、出来ることはいくらでもあるのです。
そして大事なこと。
子どもたちは1日3回ご飯をちゃんと食べている。
少しお腹が空いたって死ぬことはない。
赤ちゃんじゃないんだから、子供は自分で行動できる。
私は赤ちゃん時代の名残りから解放されなければならないと思います。
私が全てを満足させる必要はないのだと。
そして空腹を満たすために自分に何が出来るか、子どもに考えさせることも必要なのだと思います。